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長野地方裁判所岩村田支部 昭和36年(モ)21号 決定 1961年11月14日

申立人 丸山朝

被申立人 並木信政

主文

本件申立は、これを却下する。

本件申立費用は申立人の負担とする。

理由

申立人の本件申立の要旨は、被申立人は申立人と被申立人間の長野地方法務局所属公証人吉沢政雄作成昭和三十三年第六百五十三号宅地建物賃貸借契約公正証書において定められた昭和三十三年十二月十日から昭和四十三年十二月九日迄の賃料二十万円の支払義務(前払)を履行しないとして、昭和三十四年四月十七日右公正証書につき同公証人より執行文の付与を受け、同月二十八日申立人所有の有体動産に対し強制執行をなし、右物件の競売期日は同年五月十一日と定められた。しかしながら、右公正証書にはその第二条において賃貸借期間は昭和三十三年十二月十日から昭和五十三年十二月九日までとする、第三条において賃料は十ケ年金二十万円とし、十ケ年毎に前払とする、第十二条において賃借人たる申立人は昭和三十三年十二月十日より向う十ケ年分の賃料金二十万円を支払い、賃貸人たる被申立人はこれを受領した旨、第十三条において賃借人が賃料債務を履行しないときは直ちに強制執行を受けても異議ないことを認諾する旨の各記載があり、これら各条項の記載内容並にその排列の順序などを考えると、右公正証書は昭和四十三年十二月十日以降昭和五十三年十二月九日までの賃料についてのみその不履行の場合強制執行をなしうるのであつて、すでに支払ずみの旨明記されている昭和三十三年十二月十日から昭和四十三年十二月九日までの賃料債権二十万円については申立人の執行受諾の意思表示を欠きこの分については債務名義となり得ないことが明らかである。したがつて前記公証人が被申立人の申請に対し前記昭和三十三年十二月十日から昭和四十三年十二月九日までの賃料二十万円の債権につきその強制執行のため前記のとおり執行文を付与したことは形式的執行力さえ持たない公正証書に対し執行文を付与した違法の措置であるから、右執行文の取消並びに右公正証書の執行力ある正本に基く強制執行不許の裁判を求めるものである、というにあり、公証人吉沢政雄作成の宅地建物賃貸借契約公正証書及び被申立人作成の委任状によれば右公正証書に申立人主張のような各記載があること及び右公証人が被申立人の申請に基き右公正証書につき申立人主張のような執行文を付与したことが明らかである。

ところで、申立人は、前記公正証書の各記載を綜合して昭和三十三年十二月十日から昭和四十三年十二月九日までの賃料についてはすでに当事者間においてその授受を了したこととなつていることに徴し、この分については債務者たる申立人の執行受諾の意思表示を欠き、債務名義が存在しないものと解すべき旨主張するので考えてみるのに、そもそも公正証書が適法かつ有効な債務名義となりうるためには一定額の金銭等の給付を目的とする特定の請求につき公証人がその権限に基き成規の方式によりこれを作成すべきことのほか債務者がその不履行の場合直ちに強制執行を受けても異議ない旨の執行受諾の意思を表示し、かつ、その旨の記載があることを要するものであつて、右執行受諾の意思表示が公正証書に執行力が与えられる根源的な要件であることはいうまでもないが、本件公正証書のように金銭給付義務の一部につき公正証書作成のときその履行が完了した旨当該公正証書に記載がある場合この分については債務者の執行受諾の意思表示を欠くものとみるべきかどうかは更に検討を要するところである。すなわち公正証書に右のような条項の記載がなされるのにも各種の場合が考えられる。たとえば金銭給付義務の一部がすでに履行されていて(あるいはすでに履行されたことにして)ただその旨を明確にするため便宜公正証書に履行ずみの旨記載する場合もあれば現実に文字通り公正証書作成時に金銭の授受がなされる場合もあろうし、あるいは公正証書作成後速やかに金銭の授受がなされることを見越してあらかじめその授受を了した旨当該公正証書に記載する場合もありうると考えられる。(この場合には約定どおり金銭の授受がいまだ行われない事態が起りうる。)このようにみて来ると、公正証書にまづ一定額の金銭の給付義務を定め、その一部につき履行を了した旨公正証書に記載があつても必らずしも現実にその履行がなされたものとは限らないわけであるから、一部履行ずみと記載された分につきつねに債務者の執行受諾の意思表示を欠くものとみなすことは困難である。むしろ執行の受諾がない旨を明らかにする格別の条項がない限り右のような場合は公正証書に定められた一定額の金銭給付義務全部について一旦債務名義が成立せしめられ、一部履行ずみの旨の記載は単にその履行が公正証書作成と同時になされたこと、すなわちその履行関係(支払受領関係)を相互に確認し合う趣旨を便宜同証書に記載したものにすぎないとみるのが公正証書をもつて一定の給付義務関係を定めようとする当事者の意思にも一般的に合致し妥当な解釈というべきであつて、若し右記載と異り現実に一部履行がなされていないとして債権者より公正証書につき執行文付与の申請があつたときは公証人としては一応執行文を付与するよりほかないものというべく、現実に一部履行を了したことを主張する債務者としてはその旨を立証して、請求異議の訴をもつて当該強制執行を排除すべきものとするのが相当である。

これを本件についてみるに、前示のような本件公正証書記載の各条項の内容並にその排列の順序あるいは一部履行ずみの旨記載ある賃料につき債務者の執行受諾の意思表示を欠く(あるいはその余の分についてのみ執行受諾の意思表示がある)ものとみるべき特段の条項が存しないことにも徴し、申立人は昭和三十三年十二月十日から昭和五十三年十二月九日までの約定賃料全額について執行受諾の意思を表示して債務名義を成立せしめ、そのうち昭和三十三年十二月十日から昭和四十三年十二月九日までの賃料については単にその履行が証書作成と同時になされた旨の支払受領関係(現実の履行の有無はともかく)が便宜同証書に記載されたものとみるほかはないから、被申立人が右賃料債務が右公正証書の記載と異りいまだ現実にその履行がないとして前記公証人に対し右公正証書につき執行文の付与を求め、同公証人がこれを容れ本件公正証書に執行文を付与したことは相当であり、右の措置に対し執行文付与の異議をもつて同証書に基く強制執行の排除を求めようとする申立人の本件申立は結局これを失当として却下するほかはない。よつて、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用して主文のとおり決定する。

(裁判官 中村修三)

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